チャンポンか、皿うどんか?私は皿うどん派です。だいいち、チャンポンの太麺が気に食わない。塩分濃厚のスープも体に悪そう。その点、皿うどんは、パリパリ揚げ麺に、とろーりあんかけの絶妙なコンビネーション。お酢をかけると一段とまろやかな味になるし、和からしの刺激も心地よい。想像しただけで、思わずよだれが出てくるパブロフの犬状態。
さて、本題はユーミンエッセイ第4弾「彼女の歌はチャンポン」です。
これまで荒井由実の歌について述べてきた事を振り返ると、彼女の歌は型にはまったところが全くなく、思い切り個性を表現していて、実に伸び伸びとしています。彼女の言うアメリカ的な要素がベースになっていますが、ほかにも色々な面が同居している。ロックと出会ったのが中学の頃で、プロコル・ハルムの衝撃は相当のものだったと述懐していますが、ほかにも前回指摘したようにクラシックの影響も無視できません。
三枚目のアルバム「コバルトアワー」では、普通ならば進む路が「収斂」してゆくのに、彼女の場合は逆に「発散」してゆくようです。「ハッピイエンド」の細野晴臣は「今はもう、アメリカのウエストコーストとか、日本のちっちゃな地域の音楽って言うのではなく、世界中の音楽をごちゃ混ぜにしたチャンポンな感じである」と言う。細野氏はニューミュージックの旗手でありますが、荒井由実と共通した音楽観を持っていると思われます。さらに彼は「メロディと詞のオーバーイメージ。いろいろなもののごった煮的感覚」とも述べています。
これは非常に重要な発言で、私が今まで述べてきたことの核心を突いているように思えます。まさに、ここに荒井由実の音楽を解き明かす鍵があるようです。彼女の詩心はイメージの世界に代置されます。言葉はメロディーと同じなのです。この詞=イメージ=メロディの親密な結びつき・・・・・・だからこそ、彼女の曲はユニークであり、ある意味で前衛的なのでしょう。しかしそれは私の心に強く訴えかける反面、ハイブローなものとして一部の人にしか受け入れられない危険も持っています。彼女もこれを気にしているようで「できるならばよりポピュラーにしたいというのが、はっきりって本音である」と言います。
確かに芸術家は孤独なものでしょう。アイドル歌手のように大衆迎合的につくられた「芸術家」もいますが、荒井由実にしてみれば、本来の個性でイニシアティブをとっていても、聴く人に受け入れられないならば、自己満足に過ぎません。彼女は続けて言います「自分を取り巻くミュージシャンやスタッフの範囲を広げてゆくと、評論家や放送局のディレクター、そして最後にレコードを聴いてくれる人たちが登場してくる。やはり、数々の意見を無視できるなんて強がりは、さらさら言えないのだ」。
処女作LP「ひこうき雲」の構成はちょと変わっています。冒頭にタイトル曲がオケをバックに入っていますが、B面最後の曲「そのまま」が終わってから、また「ひこうき雲」の一部分が、今度は彼女の弾き語りで聴こえてきます。しかも、彼女に珍しく思い入れたっぷりの感情を込めた歌い口で。
高いあの窓で あの子は死ぬ前も
空を見ていたの 今はわからない
ほかの人には わからない
あまりにも若すぎたと ただ思うだけ
けれど しあわせ
空に憧れて 空をかけてゆく
あの子の命はひこうき雲
この歌は実際に夭折したモデルがいるらしいのだが、私はこの歌こそ彼女自身の叫びだと感じる。高いあの窓で・・・・・理想を追いかけて・・・・・・それで終わったとしても・・・・・ほかの人には理解されなくても・・・・それで幸せだと。彼女にとって空とは歌のことなのでしょう。たとえその命は、ひこうき雲のようにすぐ消えてしまうものであっても、理想を力いっぱい伸び伸びと描きたい・・・・・このように考えてはじめて詞が生きてくるように思えます。
ひこうき雲・・・・・青春の軌跡が儚いものであっても、それは必ず我々の心に残るものです。それは「卒業写真」として。もともと、「卒業写真」は荒井由実がハイファイセットのために書き下ろした曲です。このレコードはヴォーカルの山本潤子が素晴らしく、それだけでも参ってしまいますが、なにしろ編曲が素敵です。フレンチホルン(あるいはトロンボーンか?)が曲全体を優しく包み込むようなイントロを一瞬聴くだけで、ゾクゾクきてしまう。曲のメロディラインも優しく美しい。前半は曲調を抑えてしみじみ語りかけ、サビにはいってからも微笑みかけるような優しさを忘れない。最後に再びホルンが帰ってきて、オルガンの響きのうちに瞑想的に曲を閉じます・・・本当に素晴らしい曲です。おそらくは彼女にとって、「卒業写真」は「ひこうき雲」の延長線上に、「ひこうき雲」に対する回答として存在するのだと思います。
ここをクリック
最近のコメント