2011年12月 7日 (水)

二つの蝶々夫人

立て続けに蝶々夫人のTV番組を観た。

ひとつはドラマ、もうひとつはドキュメンタリーである。不思議なことに二つの番組は同じ主題を扱っていた。同じ主題とは、日本人としての誇りであり武士道精神(士風)である。感想を書いてみたい。

ドラマの「蝶々さん」は~最後の武士の娘~という副題が付くNHK土曜ドラマで、2週にわたって放映された。市川森一による小説「蝶々さん」が原作で、脚本も彼が担当している。市川は長崎県生まれで、蝶々夫人には思い入れも強いのだろうが、ドラマは素晴らしい出来であった。

N0036275_l_3   

「蝶々夫人」はプッチーニがオペラ化して世界的に有名になった(悲)歌劇である。もちろんプッチーニは日本に来たことはないし、日本の文化や音楽について色々資料収集をしたらしいが限界がある。ましてや、日本人の精神性などわかろうはずもない・・・・と考えるべきであろう。当時ヨーロッパで人気のあったオリエンタリズム、東洋趣味を利用して、自害に至る狂女の悲劇を描いた。そのため、逆に我々日本人から見ると、なんとなく違和感を感じることが多い。

原作の市川は、こうした違和感を自らが問い、武士の娘で、懐剣で自害するという行為を「士風の美」として描き直したかったと述懐している。武士の娘としての「誇り」を手放すことなく、美しく生きることに命を賭した女性として描かれているのだ。日本人として、日本人のための「蝶々夫人」を再構築したともいえよう。蝶々の自害の場面は、私を含め多くの視聴者の袖を絞ったに違いない。悲劇ではあるが、美しく潔い、むしろ清々しいのだ。かつて祖母が蝶々に伝えた言葉「武士の自害とは自らを罰することでも、敗北でもない。誇りの証である。」がズシリと胸を打つ。

このドラマが感動を呼ぶのは、主演の宮崎あおいによるところ大である。彼女は、NHK朝ドラの「純情きらり」からのファンで、若いのにいい役者だなと思っていたら、大河ドラマ「篤姫」に抜擢され、大変な逸材であることが実証された。そして、三年ぶりのドラマ主演である。ピュアでどこまでもまっすぐ。動じない強い心を持つ・・・名演技という言葉では片付けられない、天性の才能があるような気がする。今年の大河ドラマの主役とは月とすっぽん。市川も原作の時から「宮崎あおいを当て込んで」書いたというから、まさに彼女以上の配役は無い。

41ag4lyx1ul__sl500_aa300__2 

エンディングもなかなか洒落たつくりである。物語はかつて蝶々に思いを寄せた伊作が、老年になってからオペラ「蝶々夫人」を観るという場面から始まる。そこへ二世の青年ジョーが現れ、伊作が問わず語りに蝶々夫人の物語を回想してゆく入れ子構造。オペラが終わって伊作とジョーが会話をしていくうちに、ジョーが「葉隠」の一節を説く場面で・・・・ジョーが蝶々とアメリカ海軍士官の子供であることが視聴者に分かるのだ(ドラマでははっきり説明されないが)。そして、ジョーは蝶々の潔く生きた生涯を聞いて感動しつつ去ってゆく・・・・・。この場面が、蝶々の最期の悲しみを救い、「士風」が次世代に伝わっていることを明らかにするのだ。

一つだけ難癖をつけるとすれば、蝶々さんの愛読書が「学問のすすめ」「葉隠」というのは安易過ぎないか。

さて、もう一つの蝶々夫人。わが国バス歌手の大御所、岡村喬夫「新演出」の蝶々夫人である。この番組はオペラではなくドキュメンタリー。イタリアのプッチーニフェスティバルに招待され、新演出であるが故の、アクシデントや苦闘を描く番組。副題が「岡村喬夫80歳イタリアへの挑戦」。見ごたえ十分である。

Img099s_3   

逆になったが、タイトルは「蝶々夫人は悲劇ではない」。どうです?上記のドラマとテーマが似ているでしょ。NHKが同じテーマに無理やり持っていった気もしなくは無いが、基本的には市川と岡村の発想は同じなのだと思う。

もともと岡村は、オペラ蝶々夫人に大きな違和感を感じていた。それは日本人としての恥ずかしさでもあったらしい。たとえば、オマーラという地名が出てくるが、これは「大村」。また、「カミサルンダシーコ」という謎の言葉。これは「猿田彦の神」の事らしい・・・などなど。演出も坊主がちょんまげを結ってでてくるなど、日本人が観たら腰を抜かすほどらしい。

20110808nikkei_kiji_s

まあ、こうした文化の誤解は、サリヴァンの喜歌劇「ミカド」などは論外だとしても、当時は仕方が無いこと。それを、史実に沿って直すのは意味のあることだし、日本人にしか出来ないことである。もっとも、訂正したからといって、外国人から見ると大して意味を持たないのだろうと思うが。

より、大事なのは岡村も「蝶々夫人は悲劇ではない」と言い切っていることだ。象徴的なのは、結末で蝶々が自害してから、女中のスズキまで自害して果てる新演出だ。ここは見逃せない。岡村は、武士道という言葉こそ使わないが、自害に至ったのは本能的な狂気の行動ではなく、日本人としての高貴な行動である。理性的な、自覚的な行動なのだであると言う。自害するのはプライドからであって、悲劇ではないのだという。スズキが蝶々の後追いをするのも、主従の関係にあってもプライドが尊ばれるからなのである。

T02200147_0480032011585784072_2 

日本人の手によるドラマとオペラ「蝶々夫人」の再構築。そのテーマが共通するのは必然かもしれない。私はこう思う。国際社会の中で、日本のおかれている状況の厳しさ。それを認識した上で日本人としての誇りを呼び戻すことがなによりも重要であることを。そして、悲劇を希望につなげられるように力を尽くすことを。それを今回の蝶々夫人は示唆しているのだ。

音楽ブログランキング ここをクリックしてください

| | コメント (0) | トラックバック (0)