« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »

2011年12月28日 (水)

男泣き!の第九

コバケンこと小林研一郎指揮日フィルの第九、三日連続演奏会が終了した。

このところ、第九の記事ばかりだか、シーズンなのでお許しいただきたい。それにしても、コバケン日フィルで三日連続で第九の合唱を歌わせていただくなんて、本当に感謝というほかは無い。

今年私は職場(会社)がかわったのだが、その新しい職場の同僚がクラシック好きであることを知り、「第九を歌わないか」と強引に日フィル合唱団に誘った。同僚の彼は、合唱も初めてではじめは尻込みしていたが、本当にマジメに練習に通った。そして、一日目のサントリーホールでの第九では、第一楽章で不覚にも涙が出てきたという。勿論、感動のあまりである。そして、昨日の三日目最終日は、第三楽章でやはり泣けてきたのだという。第九で男泣きか! なんて素晴らしい感性豊かな同僚なんだろう。コバケンの感情移入たっぷりの指揮の姿と三楽章の愛しむような美しいアダジオを聴けばさもありなんである。私も思わず目頭が熱くなった。

第3楽章アダージョ。素晴らしく美しい音楽だ。「第九が3楽章で終わってくれたら、どんなにか嬉しい」と言った人がいたそうだ。4楽章の合唱は例えようもなく偉大な音楽だが、第九全体から見れば異質とも感じられる。その点、3楽章はただただ美しく、「ベートーヴェンのアダージョで最も美しい」とか、「ベートーヴェンが書いた最美の音楽」ともいわれる。でも、私にとっては「世界で一番美しい音楽」なのである。

さて、我々合唱団の出番である第4楽章について。最終日はオペラシティ タケミツ・メモリアルホールであった。このホールの響きは素晴らしい。ピラミッドの内部のような構造で、ゲネプロの時は残響が大きすぎてビックリしたが、客席が満席になるとかなり落ち着き見事な響きになる。しかし、1600席とやや小ぶりなのと残響が豊かなので、強い音だと飽和状態になりやすいようだ。

そんなことも影響したのだろうか、コバケンの合唱団への指示を聞いて驚いた。一つはドッペル・フーガの後「R」の終結、ソリストの四重唱前の「liber Vater wohnen」の部分。wohnenをソプラノ以外のパートを「ハミング」で歌わせたのだ。コバケンはデューナミク(音の強弱)を大胆に表現するが、これは極致だ。確かに、父なる神が星空の彼方にいるに違いない・・・という願望と確信がこのハミングに託されているのだ。

もう一つ、第九のハイライトともいうべき威勢のいい「M」の部分(Freude schner Gotter funken・・・)を、なんと「イタリアの愛の歌」のように歌えというのだ。初日のサントリーの時から、「パッションが必要。しかし、大きな声はいらない。美しく深く豊かな声で・・・」とのダメだしがあったが、まさかMを愛の歌とは・・・・・。そして、コバケンは自らピアノのところに行って、有名なイタリア民謡「カタリ、カタリ」を弾きだしたのだ。そのピアノの上手なことといったら。

このことをフェイスブックに書いたら、2人の「顔友」から賛同のメッセージが届き嬉しくなった。1人は「ベートーヴェン自身が振ったならば、案外こういったタイプの演奏になっていたかもしれないなあと思ったりします。最後は、楽譜の呪縛から自由であることがとても重要です。」 そして、もう1人は「第九はやっぱり、愛の歌だと思います」と断言された。

そうか、第九=愛の歌 はおかしくないのか。そこで思い出したことがある。もう5年位前のことだろうか、鎌倉の市民合唱団で歌った第九。日本語の第九のことである。訳詩は歌謡界の大御所 なかにし礼である。彼の詩は、バス合唱の歌いだし「フロイデ」を「あい」と歌うのである。Mの部分を見てみよう。以下のようになる。

愛こそ歓喜にみちびく光

さえぎる苦難を越えて進まん

Sh3k0091

そして、終演後の打ち上げ会でのコバケンの言葉。楽譜は単なる音符や記号の羅列でしかない。その行間、そこに作曲者のどのような思いが込められているのかを見つけるのが音楽家の仕事だと・・・・。まさに音楽は再現藝術であることを端的に語っている。先に紹介した顔友の言葉「楽譜の呪縛から自由であれ」とも通じるところがある。彼自身、この解釈はやりすぎではないかな・・・と思うことがあるという。しかし、これはベートーヴェンが許してくれるのではないか、否ベートーヴェンが求めているものに違いないという確信を持って指揮するのだという。

コバケンの第九は独特である。誤解を恐れずに言えば、ベートーヴェンの第九というより、コバケンの第九に近い。しかし、それは彼が何百回と第九を指揮してきたなかで醸成・熟成された解釈で、これをあれこれ評する意味は無に等しいと思う。それほどコバケンは第九を研究しつくし、それでも時に解釈に迷う時は「ベートーヴェンが現世に降りてきてくれないかと祈りを捧げる」という。一方でコバケンは「今日の演奏は、少しでもベートーヴェン(の理想に)に近づけたかもしれない」という謙虚な気持を常に忘れないのだ。まことに真に偉大な指揮者といえよう。

我々合唱団は、小林研一郎の指揮で第九が歌えて本当に幸せである。

音楽ブログランキング ここをクリックしてください

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年12月26日 (月)

世界一演奏の難しい第九とは

25日、今年の第九の初日を歌った。コバケンこと小林研一郎指揮、日本フィルハーモニー、@サントリーホールである。

ご存知のように、日本ほど第九が愛され、数多く演奏される国はない。だから、日本のオーケストラ、日本人のソリスト、日本人の合唱が世界で最も上手い第九の組み合わせ・・・などといわれるほどである。中でもコバケンの演奏回数は推定だが500百回を超えてダントツなのではなかろうか。

ところが、コバケンの第九こそ、合唱を含む演奏者にとって最も演奏が難しい第九だと思うのだ。それは、コバケンの解釈がとても奥深いからだ。緩急自在のテンポの揺れ、デューナミクの振幅、歌詞の解釈などなど、どれをとっても良い意味で他の指揮者の追随を許さない。すなわち、演奏者に対する指示や期待のバーが高いのだ。日本フィルはプロだし何百回も一緒に演奏しているから、勘どころは押さえられるが、我々合唱団はアマチュアだから、付いてゆくのに必死である。

さて、今日の第九はどうだったのか。第一楽章から、実に心のこもった指揮ぶりで圧倒された。「炎のコバケン」という愛称もあるくらい、常に熱い指揮をするのだが、今日は格別に思い入れが強いような気がした。いつも発せられるうなり声が影を潜め、全身全霊を音楽に捧げるといわんばかりの、力の入った演奏であった。彼の第九はベートーヴェンの第九ではなく、コバケンの第九である・・・・などという人もいる。しかし、今日の演奏は、まるでベートーヴェンが彼に乗り移ったような、いやベートーヴェンとコバケンが一体化したような演奏ではなかったか。聴いていて思わず胸が熱くなる。我々自身が高揚してゆくのが自覚できる。合唱団の私の同僚は聴いていて「涙が出てきた」ともらしていた。

合唱の出来は歌っている本人にはなかなか分からない。ゲネプロで、コバケンから厳しい指示も飛んだが、本番は気持ちよく歌えたので、悪くはなかったはずだ。ただ、サントリーホールのP席で歌うと、指揮者との距離が遠いうえ、階段の傾斜がきついので、合唱としてのまとまりを取りにくいように思う。合唱にとって難しいホールなのだ。

26日は横浜みなとみらい、27日はオペラシティと三日連続で合唱を歌う。コバケンの思い描く第九の世界、ベートーヴェンが第九に託した思いに、一歩でも近づくころができるよう精進したいものだ。

音楽ブログランキング ここをクリックしてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年12月22日 (木)

若手演奏家の熱演を聴く

今週、歌友のお嬢さんが出演するコンサートに行ってきた。

このブログでは、極力実名を避けるようにしているが、お嬢さんはプロだし差し支えないだろう。ヴァイオリニストの荒巻美沙子さんである。この春に藝大の修士課程を修了したばかりだから、まさに新進気鋭である。

曲目はシューベルトのVnとPfのソナチネ2番、ブラームスのVnソナタ一番「雨の歌」、フランクのVnソナタの三曲。ブラームスとフランクは私の大好きな曲で、古今のVnソナタの名曲中の名曲、かつ大曲である。熟練のプロをもってしても演奏には覚悟のいる二曲を新進の荒巻さんがどのように弾くのか、興味津々であった。

20111109185935342_0001_2 

驚いたことに、彼女は堂々と大曲を弾ききったのである。まず、音色が美しいことに惹かれた。演奏会場の「カワイ表参道 コンサートサロン」は収容100名程度のこじんまりしたホールで天井も低い。しかし、彼女は朗々とした音色で私を魅了した。高音の張り詰めた音色も美しいが、中低音のタップリとしたふくよかな音が魅力的である。

神経質に陥らない、思い切った弾きっぷりも見事。シューベルトのソナチネは演奏される機会は少ないのじゃないかな。以前、ヒンクと遠山慶子の演奏を聴いた記憶があるくらいだ。2番はシューベルトにしては珍しいほの暗い気分が漂う。半音階的な経過句があったりで、モーツアルト的な平明さの中に複雑な心情が覗く。荒巻さんの演奏は、出だしから「ハッシ」とばかりの気迫が感じられてひきつけられた。

Aramaki_misako_2 

テクニック的にも優れているが、曲の全体感をよく把握できているように感じた。ブラームスでは、語りかけるような優しさが全曲を通じて表現されていた。フランクでは、彼の十八番である循環形式をとりながら、各楽章の性格が上手に描き出されていた。

もちろん、解釈やアーティキュレーションなどまだまだ経験を積まなければ到達できない山は大きい。聴衆をうならせるだけの個性と魅力を備えて欲しい。しかし、荒巻さんの演奏には、楽譜を演奏するのではなく、聴く人を惹き付ける somethingがあるのだと思う。将来が楽しみである。
ピアノの清田千絵さんも達者な奏者で、特にVnと対等な立場を求められるフランクでは、十分に自己主張が伺えた。

コンサート終了後、父上の荒巻さんにお礼を申し上げた。彼は本当に嬉しそうな顔を見せていた。おそらく、美沙子さん以上に緊張したのではないか。でも、演奏会が成功し、ほっとするとともに、いっぺんに喜びがこみ上げてきたに違いない。下のお嬢様も藝大でオーボエを専攻されているとのこと。かつて、お子さんと共演するのが夢と話していたことを思い出した。うらやましいな。

Sh3k0079

コンサートの帰り、表参道のイルミネーションが、私の躍る心を一層華やかなものにしてくれた。

音楽ブログランキング ここをクリックしてください

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年12月20日 (火)

カフェのヨハン・シュトラウス

土曜日の深夜にBSプレミアムで素敵な音楽番組をやっていた。

ウィーンの歴史的なカフェで、ヨハンシュトラウスの室内楽を聴くという趣向である。

まず、場所はカフェ「Sperl」(シュペール)。1880年の創業で、オーストリアの芸術家が屯していたことで有名なカフェである。なんともシックで落ち着いていて、古きよき時代のウィーンがここにある。今にもシュトラウスがドアを開けて入ってきそうな雰囲気である。

Cafes2_2 

そして音楽。まてよ、シュトラウスが室内楽を作曲したっけ?と首をひねる御仁もおられようが、彼の名曲を室内楽に編曲したものである。しかも、編曲者が凄い。シェーンベルク、ベルク、ウェーベルンという現代音楽(12音階)の創始者たちなのだ。実は、彼らの編曲によるシュトラウスは結構有名でコンサートで取り上げられたりCDも出ている(私が持っているのはボストンシンフォニーのメンバーによるもの)。

なぜバリバリの現代音楽作曲家が通俗的なシュトラウスの音楽を編曲したのか?理由の一つは、シュトラウスの音楽が時代を問わず誰からも愛されているからだろう。もう一つは、これは請け売りなのだが、シェーンベルクが会長を務めていた「ウィーン私的演奏協会」のなりたちである。もともとこの協会は現代音楽の普及のために設立され、大編成の管弦楽曲を室内楽の編成で聴かせていた。ところが、折からのインフレで協会の運営が危機に瀕し、財源確保のために特別演奏会という形でシュトラウスのワルツが演奏されたらしい(一説には、シューベルトの冬の旅の演奏会がキャンセルになりピンチヒッターとしてこの演奏会が催されたとも)。背に腹はかえられないということか。

しかし見逃せないのは、シェーンベルクが弟子であるベルクやウェーベルンに編曲を通じて音楽教育を施していたということである。編成は弦楽四重奏にピアノ、ハルモニウム、フルート、クラリネットという奇をてらわない室内楽編成であるが、編曲自体かなり凝ったつくりになっている。でも、シュトラウスはシュトラウス。どんな形でも親しみやすく楽しい。

Sperl_1s

しかも演奏はウィーンフィルのメンバーときたら、この上何を望むことがあろうか。曲、演奏、そして場所(カフェ)とまさに三拍子揃った音楽・映像なのである。曲をご紹介すると、シェーンベルクは「皇帝円舞曲」「南国のバラ」。彼の高弟である2人は、ウェーベルンが「私の恋人」、ベルクが「酒、女、歌」。

朋友であり、フェイスブックの顔友であるムッシュー一夫にすぐさまこの放映を連絡した。ムッシューは、自らあちらこちらで触れ回っているように、アルバン・ベルク協会の監事なのでありますから(ですからこのブログでも彼の肩書きを大いにPRさせていただきます)。しかし、ムッシューは放映に間に合わなかったと悔しがっておりました。ベルクの編曲は「酒、女、歌」・・・・ムッシュー一夫にピッタリの曲だったのに(笑)。

◇ザ・フィルハーモニックス イン・ウィンナ・カフェ
~シェーンベルク、ベルク、ウェーベルン編曲によるワルツ集~
1:00:00~2:08:30

<曲 目>
皇帝円舞曲(ヨハン・シュトラウス作曲 シェーンベルク編曲)
ウィーン風小行進曲(クライスラー作曲)
ワルツ「わたしの恋人」(ヨハン・シュトラウス作曲 ウェーベルン編曲)
ワルツ「南国のばら」(ヨハン・シュトラウス作曲 シェーンベルク編曲)
美しいロスマリン(クライスラー作曲)
ウィーン奇想曲(クライスラー作曲)
ワルツ「酒、女、歌」(ヨハン・シュトラウス作曲 ベルク編曲)
イデッシュ・マム(ティボール・コヴァチ作曲)
入り江のワルツ(ヨハン・シュトラウス作曲 シェーンベルク編曲)
なつかしいウィーン(ゴドフスキ作曲)

<演 奏>
ザ・フィルハーモニックス


収 録:2011年3月9日
カフェ・シュパール(ウィーン)

音楽ブログランキング ここをクリックしてください。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年12月15日 (木)

今年初めての第九!

今年初めての第九・・・・歌ったのではなく、聴きに行った。

合唱を始めてこの方、第九とは歌うもので聴くものではないという思い込みがあるが、今回は歌友が合唱で出演するので、久しぶりに聴く側に回った。演奏は熊谷弘指揮 グレイトアーティスツ・イン・ジャパン・シンフォニーオーケストラ 合唱は東京混声合唱団+第九を歌う会 という顔ぶれである(ソリストは省略)。@東京文化会館。

このコンサートは、熊谷弘が「第九と皇帝」というイベントを企画、今年が31回目になる大変な年末長寿演奏会である。熊谷自身も御歳79歳と高齢で、日本の指揮者としては最長老の部類に入るだろう。いずれも大曲である皇帝と第九を振るわけだから、ちょっと体力を心配していたが最後まで雄弁に振り切り、心配は杞憂に終わった。

No9_chirashi

ただ、歳のせいなのか、もともとなのかは分からぬが、指揮棒の打点がやや不明確なうえ、操り人形のような指揮ぶりなので、演奏者はさぞや緊張を強いられたに違いない。もっとも、かの有名なフルトヴェングラーも「操り人形」と形容され、アインザッツがなんとも不明瞭で、その緊張感が名演を生んだと伝えられるのだから、一概に不味いとは言えまい。

_dsc0018_s

熊谷が紡ぎだす音楽は、一言でいうと優しさ。悠々としていて慈愛に満ちている。熊谷の人間性がなせる業だろう。このため、第九では第三楽章が一番楽しめた。特にバイオリンパートの愛しむような美音が素晴らしい。説明が後になったが、このグレイト・・・・・というオケは、在京の腕っこき奏者を集めた臨時編成の楽団である。顔と出演表を見る限りではN響が圧倒的に多いようだ。例えば、コンサートマスターはこれまたN響コンマスの山口浩之、フルートの神田寛明、トランペットの関山幸弘、ホルンの今井仁志などN響の現役トップだし、他の首席奏者も名だたるプレイヤーだ。最初は、アンサンブルにもイマイチ感はあったが、楽章が進むにつれて素晴らしいハーモニーになってきた。

さて、第九といえば合唱の第四楽章である。客席で聴いていても、思わず身体が揺れ、歌いだしたい気持でいっぱいだった。まずアマチュア合唱団は約200名の大群で、半年前から練習に励んできた。そこに、プロの東京混声が加わるのだから、大変な迫力である。特に男声が素晴らしく立派であった。女声は響はきれいなのだが声量が不足気味で、やや不安定。これは私の聴く位置が12列と前過ぎたことがあるかもしれない。しかし、女声の最大の難所である「uber sternen ・・・」やドッペリフーガなど要所は大変立派であった。惜しむらくは、アマチュアの至らないところなのだが、「笑顔」が少なかったこと。折角の歓喜の歌なのだから、晴れ晴れと歌ってこそである。

ソリストはアルト以外やや声量不足。これも、私の席の位置のせいかもしれない。面白かったのは、東京混声に「楽太郎」がいたこと。楽太郎とは・・・・本名が思い出せないのだが・・・・丸の内合唱団の第九でソリストとして歌ったテノール歌手で、顔が似ているので口の悪いメンバーが「楽太郎」と呼んだのである。でも、こうして知った顔に出会うのは大変嬉しいことだ。

やはり第九は聴くのではなく、歌う曲だなと思いつつ、上野の森を後にした。

音楽ブログランキング

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年12月13日 (火)

鳥肌のたつ演奏会!

先週土曜日、鳥肌のたつ演奏を聴いた。

歌友がメンバーである「SINGS」という混声合唱団のクリスマスコンサート。場所は渋谷の東京山手教会だった。

渋谷の山手教会というと、我々の年代は教会地下にあった「渋谷ジァン・ジァン」を思い出す。いわるるアングラの劇場で前衛劇を盛んにやっていた。私は観にいったことは無いのだが、それほど有名だった。いまは、カフェMIYAMAになっている。

Sh3k00720001

閑話休題。この教会は、「1000人会堂」とも呼ばれる収容力があるらしいが、椅子席は300人程度か。こじんまりとした可愛い教会である。プロテスタント(日本基督教団)なので、装飾は無いに等しく、祭壇中央に黒の十字架が立っているのみである。ただ、天上がかなり高いため、残響は非常に心地よい。渋谷というと雑踏がいやで、私にとってできれば避けたい街なのだが、こんなところに心の安らぐ場所があるのは救いである。

しかし、冬の教会は寒い。ダウンコートを着ていったのだが、寄せ来る寒気に身体の芯から冷えた。暖房も入っているのだろうが、建物自体がコンクリ造りのうえ、コーラスが入退場する際に背面の扉が開いて、寒気がどっと入ってくる。「歓喜の歌」はいいけれど、「寒気の歌」はごめんだ。まさに、鳥肌がたつコンサートだったのだ。

Sh3k00730001

SINGSはパンフレットによれば、「好きな歌を好きなだけ、シンプルにかつ楽しく、そしてやっぱり上手に歌いたい・・・」こうした想いをもとに、演奏会を企画し、終了後は解散するという独特の形態の合唱団である。今回のコンサートも練習を始めたのが半年ばかり前との説明だったが、演奏はとても満足の行くものだった。テンポラリーな活動だが、メンバー一人ひとりの技量が確りしているからだろう。

http://music.geocities.jp/ensemble_sings/2011.htm

コンサートの曲目・プロフィールなどは上記のHPをご覧いただきたい。第一曲から、ハーモニーの素晴らしさに圧倒された。周到に各声部が積み重なり、ピアノからフォルテまでのデューナミクも非常にうまくコントロールされている。掛け値なしに実際「鳥肌のたつ」演奏であった。指導者の小林香太の力量も優れているのであろう。

Sh3k0074

特に第一部が秀逸。曲も素晴らしいのだ。「祈りを歌う」と題されていたが、北欧の現代作曲家による「詩篇」や「福音書」をテクストとした作品や、あるいはバッハの「カンタータ」を主題にした合唱曲。どれもが、シンプルなメロディラインをベースに、声部の目のつんだテクスチェアがとても美しい。北欧の澄んだ空気を感じるし、まるでダイヤモンドダストを浴びているような感覚さえする。各声部よく訓練されているが、特にテノールの弱音の美しさには感心した。ソプラノの声の伸びも綺麗だ。

第二部のアラカルトを経て、第三部はクリスマスキャロル。キャロルも有名曲ばかりではなく、本当に歌いたい美しい曲をチョイスしてある。そして、締めがヘンデルのメサイアの終曲、Worthy is the lamからアーメンコーラスへ。私も丸の内合唱団の定期で歌ったが、教会という環境のよさもあるにせよ、上手い合唱団が歌うと違いは歴然と思い知らされた。

今年も良いクリスマスが迎えられそうである。

音楽ブログランキング ここをクリックしてください

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年12月 7日 (水)

二つの蝶々夫人

立て続けに蝶々夫人のTV番組を観た。

ひとつはドラマ、もうひとつはドキュメンタリーである。不思議なことに二つの番組は同じ主題を扱っていた。同じ主題とは、日本人としての誇りであり武士道精神(士風)である。感想を書いてみたい。

ドラマの「蝶々さん」は~最後の武士の娘~という副題が付くNHK土曜ドラマで、2週にわたって放映された。市川森一による小説「蝶々さん」が原作で、脚本も彼が担当している。市川は長崎県生まれで、蝶々夫人には思い入れも強いのだろうが、ドラマは素晴らしい出来であった。

N0036275_l_3   

「蝶々夫人」はプッチーニがオペラ化して世界的に有名になった(悲)歌劇である。もちろんプッチーニは日本に来たことはないし、日本の文化や音楽について色々資料収集をしたらしいが限界がある。ましてや、日本人の精神性などわかろうはずもない・・・・と考えるべきであろう。当時ヨーロッパで人気のあったオリエンタリズム、東洋趣味を利用して、自害に至る狂女の悲劇を描いた。そのため、逆に我々日本人から見ると、なんとなく違和感を感じることが多い。

原作の市川は、こうした違和感を自らが問い、武士の娘で、懐剣で自害するという行為を「士風の美」として描き直したかったと述懐している。武士の娘としての「誇り」を手放すことなく、美しく生きることに命を賭した女性として描かれているのだ。日本人として、日本人のための「蝶々夫人」を再構築したともいえよう。蝶々の自害の場面は、私を含め多くの視聴者の袖を絞ったに違いない。悲劇ではあるが、美しく潔い、むしろ清々しいのだ。かつて祖母が蝶々に伝えた言葉「武士の自害とは自らを罰することでも、敗北でもない。誇りの証である。」がズシリと胸を打つ。

このドラマが感動を呼ぶのは、主演の宮崎あおいによるところ大である。彼女は、NHK朝ドラの「純情きらり」からのファンで、若いのにいい役者だなと思っていたら、大河ドラマ「篤姫」に抜擢され、大変な逸材であることが実証された。そして、三年ぶりのドラマ主演である。ピュアでどこまでもまっすぐ。動じない強い心を持つ・・・名演技という言葉では片付けられない、天性の才能があるような気がする。今年の大河ドラマの主役とは月とすっぽん。市川も原作の時から「宮崎あおいを当て込んで」書いたというから、まさに彼女以上の配役は無い。

41ag4lyx1ul__sl500_aa300__2 

エンディングもなかなか洒落たつくりである。物語はかつて蝶々に思いを寄せた伊作が、老年になってからオペラ「蝶々夫人」を観るという場面から始まる。そこへ二世の青年ジョーが現れ、伊作が問わず語りに蝶々夫人の物語を回想してゆく入れ子構造。オペラが終わって伊作とジョーが会話をしていくうちに、ジョーが「葉隠」の一節を説く場面で・・・・ジョーが蝶々とアメリカ海軍士官の子供であることが視聴者に分かるのだ(ドラマでははっきり説明されないが)。そして、ジョーは蝶々の潔く生きた生涯を聞いて感動しつつ去ってゆく・・・・・。この場面が、蝶々の最期の悲しみを救い、「士風」が次世代に伝わっていることを明らかにするのだ。

一つだけ難癖をつけるとすれば、蝶々さんの愛読書が「学問のすすめ」「葉隠」というのは安易過ぎないか。

さて、もう一つの蝶々夫人。わが国バス歌手の大御所、岡村喬夫「新演出」の蝶々夫人である。この番組はオペラではなくドキュメンタリー。イタリアのプッチーニフェスティバルに招待され、新演出であるが故の、アクシデントや苦闘を描く番組。副題が「岡村喬夫80歳イタリアへの挑戦」。見ごたえ十分である。

Img099s_3   

逆になったが、タイトルは「蝶々夫人は悲劇ではない」。どうです?上記のドラマとテーマが似ているでしょ。NHKが同じテーマに無理やり持っていった気もしなくは無いが、基本的には市川と岡村の発想は同じなのだと思う。

もともと岡村は、オペラ蝶々夫人に大きな違和感を感じていた。それは日本人としての恥ずかしさでもあったらしい。たとえば、オマーラという地名が出てくるが、これは「大村」。また、「カミサルンダシーコ」という謎の言葉。これは「猿田彦の神」の事らしい・・・などなど。演出も坊主がちょんまげを結ってでてくるなど、日本人が観たら腰を抜かすほどらしい。

20110808nikkei_kiji_s

まあ、こうした文化の誤解は、サリヴァンの喜歌劇「ミカド」などは論外だとしても、当時は仕方が無いこと。それを、史実に沿って直すのは意味のあることだし、日本人にしか出来ないことである。もっとも、訂正したからといって、外国人から見ると大して意味を持たないのだろうと思うが。

より、大事なのは岡村も「蝶々夫人は悲劇ではない」と言い切っていることだ。象徴的なのは、結末で蝶々が自害してから、女中のスズキまで自害して果てる新演出だ。ここは見逃せない。岡村は、武士道という言葉こそ使わないが、自害に至ったのは本能的な狂気の行動ではなく、日本人としての高貴な行動である。理性的な、自覚的な行動なのだであると言う。自害するのはプライドからであって、悲劇ではないのだという。スズキが蝶々の後追いをするのも、主従の関係にあってもプライドが尊ばれるからなのである。

T02200147_0480032011585784072_2 

日本人の手によるドラマとオペラ「蝶々夫人」の再構築。そのテーマが共通するのは必然かもしれない。私はこう思う。国際社会の中で、日本のおかれている状況の厳しさ。それを認識した上で日本人としての誇りを呼び戻すことがなによりも重要であることを。そして、悲劇を希望につなげられるように力を尽くすことを。それを今回の蝶々夫人は示唆しているのだ。

音楽ブログランキング ここをクリックしてください

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年12月 4日 (日)

フランツ・シュミットを聴く

新日本フィルの定期でシュミットの交響曲第二番を聴いた。

フランツ・シュミットは日本では殆どなじみが無い。指揮者のアルミンク&新日フィルにとっては、一昨年のオラトリオ「7つの封印を有する書」に続く第二弾であり、私にとっても耳にするのは二回目のことだ。このオラトリオはキリスト教にとっての終末の書である「ヨハネの黙示録」を題材にとっていて、なんともおどろおどろしいスペクタクルだったように記憶している。

61upe6ppmbl__sl500_aa300__3   

シュミットは世紀末オーストリーの作曲家で、マーラーやR・シュトラウスよりもやや後の世代に属する。12音技法を編み出したシェーンベルクと同じ年であるが、現代音楽の方向へは進まず、後期ロマン派の末裔でありつつもユニークな音楽性を放っている。今回のシンフォニーも大作であり、非常にロマンチックな音楽であるが、和声の複雑さなどは独特の味わいだ。

250pxfranz_schmidt_2 

一時、「マーラーのライバル」とも言われていたようだが、日本で(あるいは西欧で)人気が出ないのは何故だろうか。いくら言葉を連ねても、百聞は一聴にしかず・・・・であるが、誤解を恐れずに言えば、マーラーほど感情過多ではなく、シュトラウスよりも通俗的ではない・・・といったら、この2人に較べると人気が無いのをなんとなく理解していただけるだろうか。

ただ、こうした比較をせずとも、立派な音楽が鳴っていた。そして意外と親しみやすい。三楽章形式で、約50分の大作。第一楽章はクラリネットと第二!!バイオリンによる擬バロック的(解説書から)な主題が展開される。第二楽章は民謡風と思しき主題と10の変奏曲。木管の合奏がとても美しいが、やや冗長。最終楽章は明らかにコラールと思われる旋律が対位法的に果てしなく続いてゆく。

編成は同時代作曲家の例に漏れず大編成。トランペット5本(うちアシスト1)、ホルン8本、クラリネットも5本。全体的にはかなり厚化粧で、各パートがこれでもかとタップリ歌うのだが、リズムや和声が複雑に書かれているから、演奏にはかなりの困難が伴うだろう。木管が心地よくメロディを吹く場面があるかと思うと、金管が暴力的に総奏するなど起伏に富んでいる。

アルミンクは自国オーストリーの作曲家を採り上げたい気持があったにちがいないが、この曲をレパートリーに加えたことを自体を評価したいし、隠れたる名曲を世に出したことには感謝したい。新日フィルも良くその任を果たし、素晴らしい演奏を聴かせてくれた。

音楽ブログランキング ここをクリックしてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年12月 1日 (木)

最古のビッグバンド健在

先日、オカムラさんのご招待でジャズを聴きに行った@文京シビックホール。

オカムラは毎年お得意先を招待してコンサートを開いている。昨年は前の会社でご招待いただき、「高嶋ちさ子と12人のヴァイオリニスト」を聴いた。今年は今いる会社でも幸運にもチケットが回ってきたのだ。

今回は「阿川泰子with森寿男&ブルーコーツ」でゲストが日野皓正。往年の、そして現役の名手達である。阿川泰子は置いておくとして、この日はビッグバンドを堪能することが出来た。

1_3   

若いかたはビッグバンド what?かもしれない。読んで字の如しだが、大編成のジャズバンドのことで、各4人程度のサックス、トロンボーン、トランペットなどのホーンセクションを中心にピアノ、ベース、ドラムスを加えた総勢17名前後の編成(フルバンド)になることが多い。1930年代以降のスイングジャズを中心に演奏するのだが、迫力満点で、また懐かしいサウンドが繰り広げられる。

わが国でも、かつては小野満とスイングビーバーズ、原信夫とシャープス&フラッツ、宮間利之とニューハード・オーケストラなどがテレビの歌番組でも出演していた。時代が下ると、私の好きな「天才」前田憲男とウインドブレイカーズがある。しかし、これらのビッグバンドは時代の要請にそぐわなくなり、またリーダーの代替わりなどで消えゆく道を歩んでいる。

そうした意味で、ブルーコーツはスタートが1946年の最古参バンドで、現在まで生き残り、立派な活動を続けているのだから素晴らしいことだ。リーダー(指揮者)の森寿男は三代目。題名の無い音楽会の創始者である黛敏郎が藝大在学中にこのバンドでピアノを弾いていたり、現リーダーの森も同じく藝大でトランペットを吹いていた時からバンドに加わったというから、さすが品格を感じさせる演奏である。森は間もなく御歳80歳にもなるという大御所で、足取りもややおぼつかなく、指揮をしているのかいなのか分からない(笑)のだが、リードするところはビシッと決めるのは流石だ。

コンサートは二部構成で、第一部は阿川のMoonlight Serenadeに始まって、ブルーコーツの演奏が中心。in The Mood , Mack The Knife, Sing Sing Singなど名曲が目白押し。森の年齢の話をしたが、メンバーも白髪の初老が中心で高齢化は否めない。反面、練れた円熟味のあるハーモニーは悠々としていて胸に迫る。もちろん、迫力もまだまだ健在である。驚いたのはゲストの日野皓正。間もなく70歳になるのだが、モダーンでパワフルな演奏は圧倒的である。特に切り裂くよなハイノートには全く年齢を感じさせない。

Imagescaky3b29_2 

第二部は阿川のヴォーカルをフィーチャーしたスタンダードナンバー。Take the A Train, Satin Doll, Sophisticaed Lady, Solitudeなどデューク・エリントンの名曲がずらり。こうしてみると、エリントンって凄いなあ。阿川も60歳だ。若い頃は下手だのなんだのと言われたが(失礼!)、齢を重ねていいジャズシンガーになった。

Images2_2 

そして、この日のトリの曲は、ガーシュウィン兄弟の佳曲Love is Here to Stay。映画「巴里のアメリカ人」でも使われ有名になった。実は、私の最も好きなジャズヴォーカル曲なのだ。どこへいっても、たいていこの曲をリクエストする。この曲がトリに歌われたのも不思議な縁を感じた。

参考までに歌詞を添えよう。

「私たちの恋は永遠に。ラジオや電話、映画はひと時のもので時は流れさる。だが、私たちの恋は永遠だ。ロッキー山脈は崩れ、ジブラルタル海峡がひっくり返っても、私たちの恋はここにある・・・・・・・。」

まずは、エラ・フィッツジェラルドの味わい深いバラードで。http://www.youtube.com/watch?v=at3DdAQseGs

対照的な、ダイナ・ワシントンのダイナミックな歌。

http://www.youtube.com/watch?v=IznqcHMVA6o&feature=related

音楽ブログランキング ここをクリックしてください

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »