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2009年4月29日 (水)

バッハ=熱狂の日オープニングコンサート

丸の内に大聖堂が出現した。

私のブログでもことあるごとに、丸ビルマルキューブはヨーロッパの大聖堂の響きがあると絶賛してきたが、それが現実になったのだ。

今日、丸の内合唱団のスポンサーさんにチラシを届けに行く帰りに丸ビルに立ち寄ったら、ちょうど「熱狂の日」と並行して行われる「丸の内ミュージックイベント」のオープニングセレモニーと出くわした。

マルガツ広報担当のMさんとランチを済ませ、コンサートを覗きにいった。客席には総監督ルネ・マルタンの姿も。マルタン氏にご挨拶しようと待ち構えていたのだが、彼は一曲目でそそくさと退出され残念。スポンサーのH部長さんは、相変わらずかっこよく決めている。

ステージも完成されていて、東京メトロポリタン・ブラスの四重奏が演奏された。トランペット2、トロンボーン、チューバの編成でメロウな響きがなんとも心地よい。金管は強奏するばかりではないのだ。ステージ奥中央には、立派な電子オルガン(ロジャース)が鎮座していて、飾りの?パイプもついている。オルガンの上には、普段は厳粛な顔だが、大バッハの笑顔が・・・・・・。

我々丸の内合唱団はミナエ先生のオルガン演奏をバックに歌うんだなあと考えると、俄然やる気が湧いてきた。

St340400

さて、夕方はこれまた偶然にも会社のアドヴァイザーと丸ビルで会食の機会があり出かけたのだが、運よくオルガンコンサートを聴くことが出来た。森武靖子さんのソロでバッハを三曲。教会といえばパイプオルガン、いやー、まさに大聖堂の響きに感激です。一階フロアでも素晴らしいが、三階あたりで聴くと、吹き抜けの空間にオルガンの重厚かつ柔らかな響きが満ち満ちて、なんともいえない感動を味わうことが出来た。マネジメント担当のKさんと短い話をした。音響調整に苦労されたようだが、とても自然な響きである。

St340402

曲目は、まずフーガト短調。小フーガとして有名な小品である。ソプラノから足鍵盤(ペダル)のバスに至るまでクッキリとした旋律が美しい。

二曲目はオルゲルビュヒライン(オルガン小曲集)から第24曲「おお人よ、汝の大きな罪を嘆け」。これは受難節のための小曲だが、高音部に以前このブログでも述べた「十字架音型」が現れ、バス=足鍵盤は半音階的な進行で、キリストのゴルゴダの丘への道行きを現す・・・・という深い悲しみの曲。

http://muko-dono.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-1559.html

最後にパッサカリアハ短調が演奏された。例の「トッカータとフーガ ニ短調」と並び称されるバッハオルガン曲の名曲。15分近い変奏曲の大曲だが、まさに壮麗で重厚なオルガンの響きに魅了された。特に足鍵盤の深く大きな響きは圧倒的である。

このオルガンをイベントのためだけに使うのはもったいないような気がした。丸ビルは素晴らしい大聖堂なのだから、定期演奏会をやってほしいものだ。

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2009年4月25日 (土)

ふたたび、ひこうき雲

ユーミン(荒井由実)の連載は終わったのですが、もう一度カムバックです。

本日の朝日新聞朝刊、土曜版(be)になんと「ひこうき雲」が掲載されたのだ。「うたの旅人」という連載で、なかなか面白い企画である。作品の多くがエピソードを入れてノスタルジックな採り上げ方をしているのだが、いつもこれを読んでいると「歌は世につれ、世は歌につれ」という諺がリアリティをもって迫ってくる。

さて、話はだいぶ前に田町(芝浦)にあった、アルファレコードの窓無しスタジオから始まる。私は以前芝浦の支店に勤務していたことがあったので、とても懐かしく思えた。今から40年弱前、作曲家の村井邦彦が、当時立教女学院に通っていた荒井由実に「専属作家にならないか?」と口説いたそうだ。この一言をもってしても、彼女の才能の偉大さが分かるだろう。

村井は、彼女のファーストアルバム「ひこうき雲」は「20世紀の日本の名盤ベスト50には入る」と意気込んでいたそうだが、当初はほとんど話題にならなかった。私もブログで指摘したように、彼女の歌はある意味前衛的であり、一部の人にしか理解されない面がある、ということなのだ。今日の新聞で小倉エージは「類がなく、新しいジャンルを自分で作るような革新性があった・・・・・略・・・・・・彼女は画家だったので、曲も絵画的だった」と述べている。絵画的という表現も私がブログで書いている。

だが、結婚して松任谷姓を名乗るころになると、「繊細な言葉や表現に浸かっていたかったのに、ポップに行ってしまった」とそれまでの熱狂的なファンが違和感を感じるようになる。あるファンは「曲がユーミンらしくない」と苦言を呈したそうだが、かけがえのない「私小説的世界」から離れてゆくことが我慢できないファンの気持も、私には分かる。

私もユーミンの歌は好きで、ずっと聴いてきたが、ファンといわれれば、松任谷由実ではなく荒井由実のファンである。決して、貸したレコードが帰ってこなかったからではない・・・・・そう実感させてくれた、今日の新聞特集であった。

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2009年4月21日 (火)

青春アカペラ甲子園

女ポール・ポッズ

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昨日、友人が教えてくれた「ズーザン・ボイル」という女性アマチュア歌手?。帰宅してユーチューブに見入ってしまった。Britain's Got Talent(ブリテンズ・ゴット・タレント)というイギリスの公開オーデション番組で賞賛された「事件」である。日本のテレビでも放映されたようで、家人も知っていた。

今年の4月11日というから、つい最近のこと。お世辞にも美しいとはいえない容姿の(差別しているわけではない)47歳の中年女性。ステージに登場した時点では、会場の失笑をかっていたのだが、ひとたび歌いだすと、その美しく張りのある声に聴衆は騒然。審査員も万票の最高点を与えた。歌はミュージカル「レ・ミゼラブル」の「夢破れて」。まさに名歌名唱。感動を与えること間違いない。容姿と歌のギャップの大きさといってしまえばそれまでだが、いまや中年女性(彼女はキスもしたことがないという)のドリームストーリーとして、瞬く間に世界中で有名になっている。

http://www.youtube.com/watch?v=hZTmbmvYSm0

この番組を見て、思い出したのが、以前にブログで紹介したポール・ポッズ。同じ番組、同じ設定・・・・・・ちょっと出来すぎているような気もするが、まさに女ポール・ポッズなのであります。男ポッズも女ボイルも、見る者に感動と勇気を与えてくれます。皆さん、一見いや必見ですぞ。

http://muko-dono.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_eb19.html

さて、本題に入ろう。最近は会社で嫌なこと、疲れることがまとまって起こっていて私は元気がない(Oさんのせいではありませんよ)。久しぶりに、早く帰宅して食事をしながらテレビを見ていたら、面白い番組をやっていた。「青春アカペラ甲子園」。いろいろなアマチュアのユニットが登場して、アカペラで歌い、出来を競うというユニークな番組である。前身の「ハモネプ」から数えると7回目になる歴史ある?番組とのこと。

アカペラというとゴスペラーズを思い出すが、単に声部が分かれた(例えば混声四部)ユニットではなく、ボイスパーカッション(ボイパ)が入っているのが面白い。ボイパは様々な楽器(主に打楽器)の音色をそっくり口で表現する技術とされていて、人間業とは思えないような名人もいる。

http://wwwz.fujitv.co.jp/FOD/hamonep_index.html

ユニットは小学生から大学生、社会人?まで多種多様で、聴いていて実に楽しい。さぞや練習が大変だったろうと思うが、素晴らしいハーモニーを聞かせてくれる。なかには愛知県岡崎高校のコーラス部発祥のユニットも。このコーラス部は音楽コンクールで優勝の常連で、世界合唱オリンピックで一位に輝いたというツワモノ。そこのメンバーによるユニットだから上手くて当然。

我々丸の内合唱団からもユニットを誕生させてはどうだろう。フツーの合唱団ではない、マルガツにピッタリの企画だと思うが。

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2009年4月19日 (日)

バッハ、ミステリー作曲家としての実像に迫る

丸の内合唱団は、今夜は男声だけの特別練習。某女声役員?の「男声しっかりしろ」との叱咤を受けて、そこまで言われたくないとの思いを秘めつつ、がっつんと練習しました。二時間半歌いっぱなしで本当にヅカレダ。熱も出てきたみたい(笑)。でも、2回前のブログで、「感情に訴える」と私が絶賛したBWV227Jesu,meine Freude(イエスは、私の喜び)のバス433小節からのメリスマとシンコペーションのところを、ミナエ先生が同じように褒めてくれたので、とても嬉しかった。

バッハの音楽は、なんの予備知識がなくても凄いと感動させるものを持っている・・・・直近2回のブログで書いたことだが、もう一つ驚かされるのは、その作曲テクニックだ。数学的な精密さと象徴性=つまり暗号を備えていて、楽譜を解読してゆくと、さながらバッハはミステリー作家のように思えてくる。

良く指摘されるのが、バッハの数の象徴である。例えば、3は神の数(三位一体)、4は人間、7は神の神聖、10は律法と言った具合。14はバッハ自身をあらわす。BACHA=1,B=2,と当てはめて数を足してゆくと14になるからである。バッハ研究家として著名な礒山雅氏は、ロ短調ミサのグローリアを使って数の象徴を説明している。グローリアの冒頭は金管3本、3部の弦、3拍子でニ長調の3和音を奏でる。この部分は三位一体の神を賛美する部分。ところが、100小節目から音楽はぴたりと静まり調性がニ長調からト長調に下降するが、拍子も4拍子に変わって天上→地上世界の平和を願う音楽が奏でられる。声部の数は14となり、他ならぬバッハも地上の平安を願っていることを示す・・・・・とまあこんな具合である。モーツァルトのオペラ「魔笛」における3の数象徴はフリーメーソンを暗示すると以前のブログに書いたが、バッハの場合、同じような事象がさらに徹底されて盛り込まれているのだ。数の象徴を解き明かすことにより、作曲者バッハの意図を読むことができる・・・・これもバッハの音楽の楽しみでもある。

象徴は数だけではない。もっと分かりやすい事例として、音符の形態や音名などを通して、バッハは音楽を超えたものを提示しているのである。一番有名なのに十字架音型がある。これは、例えば、ソ、シ、ミ、ソの音符の連なりの場合に、ソとソを繋ぎ、シとミを繋ぐと線が十字架のように交差する。また、調性を示す記号の♯(シャープ=ドイツ語でまさにクロイツ)も十字架の象徴として扱われている。先にあげた礒山雅氏による500ページもの大著「マタイ受難曲」を読み返してみたが、バッハはマタイでも十字架音型や♯による象徴を、受難曲の場面や言葉に応じて、極めて有効に使っているのである。

こうした例は枚挙に暇がない。上記「マタイ受難曲」によれば、スタッカート=罪の棘。通奏低音のピチカート=涙のしたたり。二本のフルートの同じ音型連続=香油が注がれる様。通奏低音の不気味なうねるような動き=ユダすなわち蛇の例え。付点リズム=イエスへの鞭打ちなどである。

今回丸の内合唱団が「熱狂の日」で歌う、モテットを見てみよう(指揮者和田朗さんの説)。BWV227Jesu, meine Freude」の第一曲では、冒頭がテナーの跳躍音型が生き生きした喜びを、バスの安定した進行がイエスに裏付けられた平安を示す。

3曲「Unter deinem Schirmenアルトとテナーに八分音符を主体にした激しい動きがあり、サタン・敵の攻撃の激しさを語るものと考えられる。特に107・113小節のアルトは, Sturmen (嵐) erbittern (怒らせる)といった言葉の激しさを十六分音符をまじえた激しい動きで表現している。116・117小節では、 kracht (すさまじい音をたてる・雷鳴がする) blitzt (稲光がする)という言葉に対応して,鋸の歯の形に動く八分音符ひとつひとつに単語の1音節が付けられ,しかもパートによって繰り返し同じ言葉を歌ったり,他パートとずれて歌うことから,雷鳴や稲光のすさまじさが表現されている。119小節では、 Holle (地獄) schrekken (脅かす)という単語に対応して,h-molに一時的に転調して無気味なハーモニーを作り出しているし、臨時記号が多くなることから,不安定な響も感じとられる。

10曲「So nun der Geist des410・417小節 Toten (死者)という言葉は,常に全パートがそろって,それまでの四分音符の刻み(音楽の動き)を失っている。443~444小節 ソプラノ1の Geist は,あたかも天より生き生きとした霊が地におり人間の内に宿ることを象徴するかの様に下行してくる。
 

バッハは、こうした象徴あるいは暗喩をなぜ多用したのか?聴くものを楽しませるため?いや、断じてそれはないだろう。彼は音楽に象徴を盛り込むことにより、より高い次元の音楽・・・・神の高みに近づく音楽を作曲しようとしていたに違いない。相手は、聴衆ではなく、神に対して・・・・神のために音楽を捧げていたのだと思う。

だから、バッハの音楽を聴いて、あれやこれや象徴の意味を探るのはクラシックファンとして邪道なのか?

天国にいるバッハは微笑みながらこう答えるかもしれない「いやいや、私の音楽から象徴を見つけ出すことが、神へ近づく道なのですよ」と。

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いつかはマタイを歌いたい

さて、昨日のブログ「バッハは昔から好きだったけど・・・」の続きである。

社会人になってからは、四大宗教曲、すなわちマタイ受難曲、ヨハネ受難曲、ロ短調ミサ、クリスマス・オラトリオなどにも手を染め(正確には耳を染め)、バッハの奥深さを味わうことになる。

宗教曲だから詞があるのだが、日本人にとってはなかなか理解し難い。ドイツ語から日本語への訳を見ても、フツーの人はキリスト教の素養がないとチンプンカンプンかもしれない。私は中高がカトリックの私立校で、聖書の勉強会もあったので、クリスチャンではないが、なんとなく理解は出来る。しかし、仮に言葉がわからなくても、バッハの宗教曲、カンタータなどは音楽だけで十分に楽しめるのだ。

中でもマタイは素晴らしい。マタイについて語り始めると長くなりそうなので、マタイ(また)の機会にしたいと思うが、まさに人類の宝ともいうべき作品である。受難曲とは、キリスト教の4つの(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4人が書いた)福音書に基づく、イエス・キリストの受難をテーマにした宗教曲。ユダの裏切りやペテロの否認、イエスの捕縛と裁判、十字架上の処刑、そして復活が・・・・・独唱、合唱、オーケストラにより劇的に展開される。古今東西、多くの作曲家が受難曲を書いているが、バッハのマタイは最高峰、いや世の中の全ての音楽の首座に位するかもしれないほどの素晴らしさである。

受難曲すなわち本来は教会典礼用の形式を借りながら、バッハのマタイは「人間の罪」と「神の愛」という極めて深遠なテーマが、ある時は激しく、ある時は粛々と語られてゆく。しかも、極めて主情的で人間的な衝撃を聴く者に与えるところが凄いのだ。まさに演奏者も聴衆もともにイエスの受難を追体験することになるのである。最も古いマタイの録音のひとつメンゲルベルク指揮・アムステルダムコンセルトヘボウ管弦楽団の演奏を聴くと、聴衆のすすり泣く声が録音されている。いや、合唱もソリストも・・・・オーケストラも泣いていたに違いない。演奏に関わったものが皆涙するような曲を私はほかに知らない。

今年の「熱狂の日」、丸の内合唱団の出し物はバッハのモテット。これでバッハの素晴らしさを「体感」した私としては、いつかはマタイを歌ってみたい。その思いがますます強くなっている。

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2009年4月18日 (土)

バッハは昔から好きだったけど・・・

今年のラフォルジュネ(熱狂の日)で丸の内合唱団はバッハのモテットを採り上げる。我々マルガツのレベル&練習量からすると、かなりの難曲で、皆四苦八苦している。かくいう「楽譜も読めない」私も非常に苦労しているのだが、反面バッハを歌うのはとても楽しい。生理的に楽しいのである。

思えば、昔からバッハは好きだった。私がクラシック音楽を聴き始めたのは小学生高学年だから。もう、40年も前のことになるだろうか。別に裕福な家庭ではなかったので、ビクターの小さなステレオを買ってもらい、なけなしの小遣いを貯めてレコードを買っていた。中学生になってからだが、行きつけのレコード店にバッハのブランデンブルク協奏曲のセットがあって、とてもほしかった。バッハの権威カール・リヒター指揮のミュンヘン・バッハ管弦楽団の演奏で、ドイツ・アルヒーフ特有の布製のボックスが高級感を醸しだしていた。やっとの思いでこのセットを買ったときの喜びを今でも良く覚えている。G線上のアリアや、フルートのポロネーズで知られる管弦楽組曲もリヒターのレコードを買った。どちらかというと地味な「音楽の捧げもの」も大好きで、これもリヒター盤。当時は、私にとってバッハ=リヒターだったわけだ。リヒターの厳格な構成美はとてもバッハに合っていて胸のすく演奏だった。

ほかにもバッハを良く聴いた。名バイオリニスト、シェリングのバイオリン協奏曲全3曲。レッパードのチェンバロ協奏曲、名手ヴィンシャーマンのオーボエ・オーボエダモーレ協奏曲などなど、数えだしたらキリがない。奇才グレン・グールドのゴールトベルク変奏曲も印象に残る。これらは、近年になって古楽器演奏やピリオド奏法が主流になると、ピノックやホグウッド、レオンハルトなどのCDにとって代わられた。

バッハの曲というと難解、とっつきにくいといったイメージが付きまとうが、上述した私のお気に入りの楽曲の多くはケーテン時代~初期のライプチヒ時代の世俗曲で、聴いていてとても楽しい。律動的な愉悦にあふれ、それが爽快感にも繋がる。思わず体が揺れてしまうほどだ。バッハのモテットを歌っていて感じるスイング感はまさにコレなのだ。例えば、BWV227の「Jesu,meine Freude(イエスよ、私の喜び)のバス433小節からのメリスマとシンコペーションはどうだろう。知性よりも感情に訴えるなにかがここにはある。

ユーチューブにあるモテットの動画を見ても、指揮者を含めて、合唱団の面々は体でリズムを表現していて面白い。

http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=PKHDAmiqmG8

難しいけど、楽しい。歌っていて喜びを感じる・・・・この感覚は、大昔からバッハの音楽に耳が慣れ親しんでいたせいなのだろうか。

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2009年4月14日 (火)

悲しくも美しくもえ

会社でお世話になっている大学の先生(医師)が入院しているというので、大学病院にお見舞いにいった。半年に一度、会食を兼ねてお話を聞く機会があるのだが、一年近く前から調子が悪かったようだ。しかし、傍目には健康体の様子で、食事もフルコースを確り楽しんでいらした。最後にお会いしたのは昨年末。その時も車椅子で入院先からわざわざ出てこられ、貴重なお話を伺った。一度お見舞いに行かねばと、先週末入院先に出かけたのだ。

ところがである。受付で病室を探してもらったが、現在入院していないとの事であった。不審に思い、勤務先の病院に電話したが要領を得ない。ようやく先方が口を開いた言葉は「最近、お亡くなりになりました」。まさに、驚天動地の思いであった。勤務先にご自宅を聞いても個人情報の関係からか教えてもらえず、八方手を尽くして、最後はNTTの電話番号案内で自宅を知った。

電話で奥様とお話ができたので、取るものもとりあえず、その足でご自宅にお悔やみに行った。

奥様は、半年に一度の会合の事をご存知で、そういえば、昨年末の時も終了後、どこかで待機していらした奥様とお嬢様が先生の車椅子の両側に寄り添うようにしていらした姿が目に焼きついている。思わず涙ぐむような情景であった。先生はこの会合をとても楽しみにしていたことを奥様から伺った。どんな予定が入っていても、また入院してからも主治医に頼み込んで病院を出たのだという。本当に嬉しいし、ありがたいことだ。でも、先生にはもう喜んでもらえない。

亡くなった先生は、僕はあまり長いお付き合いではなかったけれど、奥様の話を聞いて、非常に立派な人であったとの思いを強くした。

先生は日本でも有数の医師として注目を浴びていたが、大学から理事就任(学校経営)を要請されて、大好きだったメスを置いたという。先生いわく、理事になりたくてしょうがない人が学校経営に当たるのはよくない。経営がおかしくなる。周りから推されて仕方なく就任するような人でなくてはダメだ。医師として患者を救うのもひとつの道だが、大学経営の場を通じて、ひとりでも立派な医者を作るほうが大切だ・・・・との思いからだったらしい。

大学経営においては、ひたすら大学改革に取り組んだそうだ。古い体質の医学部には大きな壁が立ちふさがっていた。しかし、先生は常に自分の軸を確り持ってブレルことがなかった。常に正論を吐き、それを自らの行動で示していたそうだ。結果、大学の上層部に受け入れられずに非常に苦しんでいたことも奥様の話からはじめて知った。しかし、教え子からはとても慕われていたそうである。
末期に病が全身を蝕み意識が朦朧としていたのに、最後に奥さんを強く抱き締めたという。そんな力がどこに残っていたかと思うほど。


奥様は泣きながら、先生の思い出話を語り、私は思わずもらい泣きをしてしまった。しかし、奥様の思い出話を聞いてあげる事で先生のご供養になった気がしている。
先生はクリスチャンで聖書の言葉通り生きた人だったそうです。

私には所詮無理なことだろうが、少しでも先生のような人に近づきたいものである。

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2009年4月 8日 (水)

瞳を閉じて、もう一度夢を見よう

帰宅して何気なくテレビをつけたら、NHK番組SONGSで松任谷由実=ユーミンの特集番組をやっていた。この番組は録画予約しているのだが(録画するだけで見ないことが多いが)、今日は15分早く始まったので、途中からしか見ることが出来なかった。果たして、すばらしい番組構成だった。長崎県の離島 奈留島にある高校のために作られた名曲「瞳を閉じて」が、今でも歌われている場面。18歳になり就職?で島を離れる若者がフェリーで旅立ってゆくシーン。おもわずもらい泣きしてしまった。ユーミンの歌と現実の場面が本当に渾然一体となって感動を呼ぶ。当時、ユーミンが作曲するきっかけになった一通の手紙を書いた女学生(今は主婦)との30年目にして初めての出会い・・・・などなど、NHKの番組つくりは憎いほど上手い。

そのあと、長野県の立科中学の卒業式で「卒業写真」を歌う場面も感動的。ユーミンが参観していたのだが、感動のあまり彼女ももらい泣きしてしまう・・・・・ユーミンの挨拶はちょっと余計だったけど。私のブログでは、これまで、4回に分けて30数年目に私が書いたユーミンのエッセイを紹介してきたが、今日のテレビを見て、昔の「私の青春」を思い出した。単に懐かしいだけではなく、この感動は今の自分にも新たな力を、パワーを与えてくれるような気がする。

さて、今日はブログを書くつもりはなかったのだが、テレビを見た勢いで、番外編とゆこう。私は現在、ある会社の経営層にいるのだが、年度初めになると会社全体の会議があってスピーチをさせられる。その中身をここでご紹介しても意味はないが、今回スピーチの結びで話したことをご紹介したい。ずばり、ユーミンの話だからである。

最後に私事も交えまして、最近感じたことをお話します。私が所属している合唱団
がこの前ユーミンこと松任谷由実と共演する機会がありました。もっとも共演した
のは女声だけで、男声はおいてけぼりで3時間たちっぱなしで指をくわえていましたが・・・・・。
その際、ユーミンの話を聞く機会がありました。彼女は足元の経済危機や政治不信の世相を反映して、前向きな夢を描きにくくなった今、自分の意識を変えることが大切だと強調していました。今は、これまでの延長線上で夢にふけっていたのではダメだ。仕事が減ってきていても、それをネガティブに受け止めるのではなく、「いろいろなことができる」と前向きに考えたほうがよい。

彼女が新曲を作るときも、これまでに膨大な曲を蓄積してきたので、今までやっていないことをやるのは大変だという。でも、一度手を染めたと思っていたことでも、自分の価値観さえ変えれば、同じコード(和音)進行でも新鮮なものができる。自分が変わってゆくことが何より大切だと実感している、というのです。4月8日にリリースされる35作目のアルバム「そしてもう一度夢を見るだろう」では、時代が変わり重苦しい世界にあっても、夢は続くと歌っています。全体が茫洋として明るい時よりも、暗闇のほうが光のありかがはっきりする。それが希望であ
り夢であると言っています。

「そして、もう一度夢を見る」・・・・どうか皆さん、自らの価値観を変えてゆく、変革してゆく思いで、暗闇の中の鋭く光る希望に向かって、一緒にがんばってゆきましょう。

どうですか?なかなか良いスピーチの結びでしょ。自画自賛ですが、ユーミンはいいこと言いますよね。

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2009年4月 7日 (火)

チャンポンか皿うどんか

チャンポンか、皿うどんか?私は皿うどん派です。だいいち、チャンポンの太麺が気に食わない。塩分濃厚のスープも体に悪そう。その点、皿うどんは、パリパリ揚げ麺に、とろーりあんかけの絶妙なコンビネーション。お酢をかけると一段とまろやかな味になるし、和からしの刺激も心地よい。想像しただけで、思わずよだれが出てくるパブロフの犬状態。

さて、本題はユーミンエッセイ第4弾「彼女の歌はチャンポン」です。

これまで荒井由実の歌について述べてきた事を振り返ると、彼女の歌は型にはまったところが全くなく、思い切り個性を表現していて、実に伸び伸びとしています。彼女の言うアメリカ的な要素がベースになっていますが、ほかにも色々な面が同居している。ロックと出会ったのが中学の頃で、プロコル・ハルムの衝撃は相当のものだったと述懐していますが、ほかにも前回指摘したようにクラシックの影響も無視できません。

三枚目のアルバム「コバルトアワー」では、普通ならば進む路が「収斂」してゆくのに、彼女の場合は逆に「発散」してゆくようです。「ハッピイエンド」の細野晴臣は「今はもう、アメリカのウエストコーストとか、日本のちっちゃな地域の音楽って言うのではなく、世界中の音楽をごちゃ混ぜにしたチャンポンな感じである」と言う。細野氏はニューミュージックの旗手でありますが、荒井由実と共通した音楽観を持っていると思われます。さらに彼は「メロディと詞のオーバーイメージ。いろいろなもののごった煮的感覚」とも述べています。

これは非常に重要な発言で、私が今まで述べてきたことの核心を突いているように思えます。まさに、ここに荒井由実の音楽を解き明かす鍵があるようです。彼女の詩心はイメージの世界に代置されます。言葉はメロディーと同じなのです。この詞=イメージ=メロディの親密な結びつき・・・・・・だからこそ、彼女の曲はユニークであり、ある意味で前衛的なのでしょう。しかしそれは私の心に強く訴えかける反面、ハイブローなものとして一部の人にしか受け入れられない危険も持っています。彼女もこれを気にしているようで「できるならばよりポピュラーにしたいというのが、はっきりって本音である」と言います。

確かに芸術家は孤独なものでしょう。アイドル歌手のように大衆迎合的につくられた「芸術家」もいますが、荒井由実にしてみれば、本来の個性でイニシアティブをとっていても、聴く人に受け入れられないならば、自己満足に過ぎません。彼女は続けて言います「自分を取り巻くミュージシャンやスタッフの範囲を広げてゆくと、評論家や放送局のディレクター、そして最後にレコードを聴いてくれる人たちが登場してくる。やはり、数々の意見を無視できるなんて強がりは、さらさら言えないのだ」。

処女作LP「ひこうき雲」の構成はちょと変わっています。冒頭にタイトル曲がオケをバックに入っていますが、B面最後の曲「そのまま」が終わってから、また「ひこうき雲」の一部分が、今度は彼女の弾き語りで聴こえてきます。しかも、彼女に珍しく思い入れたっぷりの感情を込めた歌い口で。

高いあの窓で あの子は死ぬ前も
空を見ていたの 今はわからない

ほかの人には わからない
あまりにも若すぎたと ただ思うだけ
けれど しあわせ
空に憧れて 空をかけてゆく
あの子の命はひこうき雲

この歌は実際に夭折したモデルがいるらしいのだが、私はこの歌こそ彼女自身の叫びだと感じる。高いあの窓で・・・・・理想を追いかけて・・・・・・それで終わったとしても・・・・・ほかの人には理解されなくても・・・・それで幸せだと。彼女にとって空とは歌のことなのでしょう。たとえその命は、ひこうき雲のようにすぐ消えてしまうものであっても、理想を力いっぱい伸び伸びと描きたい・・・・・このように考えてはじめて詞が生きてくるように思えます。

ひこうき雲・・・・・青春の軌跡が儚いものであっても、それは必ず我々の心に残るものです。それは「卒業写真」として。もともと、「卒業写真」は荒井由実がハイファイセットのために書き下ろした曲です。このレコードはヴォーカルの山本潤子が素晴らしく、それだけでも参ってしまいますが、なにしろ編曲が素敵です。フレンチホルン(あるいはトロンボーンか?)が曲全体を優しく包み込むようなイントロを一瞬聴くだけで、ゾクゾクきてしまう。曲のメロディラインも優しく美しい。前半は曲調を抑えてしみじみ語りかけ、サビにはいってからも微笑みかけるような優しさを忘れない。最後に再びホルンが帰ってきて、オルガンの響きのうちに瞑想的に曲を閉じます・・・本当に素晴らしい曲です。おそらくは彼女にとって、「卒業写真」は「ひこうき雲」の延長線上に、「ひこうき雲」に対する回答として存在するのだと思います。

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2009年4月 5日 (日)

スローなバラードにしてくれ

ブギではありません。バラードです。ユーミンエッセイその3です。

荒井由実の曲にはアップテンポで好きな曲も多いが、私の好みはスローバラード。「私のフランソワーズ」「海を見ていた午後」。地味だが何度も聴くうちに好きになった「旅立つ秋」、「雨の街」。アルバム「コバルトアワー」の中のぴか一「航海日誌」などなど味わい深い名曲が多いのです。

「海を見ていた午後」では、つい先日彼女と結婚した松任谷正隆の幻想的なアコースティックピアノをバックに、珍しく思い入れたっぷりに歌っています。彼女は多摩美で日本画を専攻していますが、この曲は日本画というよりも、霧の中に見え隠れする恋人の影とでも形容したいような印象派的な美しさです。それでいて、同時に非常に研ぎ澄まされた彼女の心理描写も感じるわけで、とても不思議な感覚の歌だと思います。詞も実に繊細で、彼女の極め付きと言えます。

あの時目の前で 思いきり泣けたら
  今頃二人 ここで海を見ていたはず

  窓にほほを寄せて カモメを追いかける
  そんなあなたが 今も見える テーブルごしに

  紙ナプキンには インクがにじむから
  忘れないでって やっと書いた遠いあの日

最後の「紙ナプキンには、インクがにじむから」は、普通ならば「譜例②」のように歌いますが、彼女は「譜例③」のように歌う。西洋音楽の前打音、あるいは謡曲の「振り引き」のほうが適切かもしれない。とにかく、震わせて歌うのは、紙ナプキンにインクが滲む様を表していて心憎い。彼女の心の襞までも見えるような演出です。「航海日誌」も、彼女特有のノンビブラート歌唱が、かえって寂しさを醸しだしています。

スローテンポの曲を聴いていると、荒井由実の育ちのよさを感じないではいられません。彼女は中学生のはじめの頃まではクラシックピアノをかなり本格的にやっていて、中高はミッションスクールに通っていた(立教女学院)・・・・・などなど。こうした音楽環境のなかで、彼女の歌には明らかにクラシックの、そして特に教会音楽の影響を感じます。既に書きましたが、ファーストアルバム「ひこうき雲」のジャケットは、バロック音楽の殿堂、ドイツのアルヒーフレーベルを模したもの。「旅立つ秋」や「花紀行」などは、バロック以前、ルネサンス風の教会音楽が持つ、ある種の「静謐さ」を醸しだしています。

続く・・・・

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2009年4月 1日 (水)

魔法の鏡とセンスの良さ

ユーミンエッセイその2です。

「魔法の鏡」はマイナーですが、彼女にしては珍しいですね。全編のメロディラインが素敵で、サビの「あれが最初で最後の本当の恋だから」のリズムが面白く、ここでも得意のシンコペーションや冒頭のピアノのブレイクがピッタリです。彼女の歌は大人っぽい感覚と、少女のような無垢な純真さが混在しているところが魅力ですが、この歌では女性的な詞をマンドリンの伴奏で抒情的にあしらいながらも、全体のイメージは彼女の突き放した歌唱によりドライに仕上がっており、そのあたりの計算も憎いばかりです。

荒井由実にみるセンスのよさ

「たぶんあなたはむかえに来ない」という長い題名の歌では、茶目っ気たっぷりな彼女の顔がうかがえます。激しい雨に「降られた」ことと、彼に「フラれた」ことを掛けて、しかもその悲しさをほのめかす様に、エンディングは下降音階をとって、全体の曲調と面白い対照をつくりあげています。同じような言葉遊びは「航海日誌(後悔日誌)」にも見られます。

「チャイニーズ・スープ」もとりわけ変わった曲で、詞も洒落ていて思わず微笑んでしまいます。バックにラグタイム風のメロディーが流れ、彼女が男達を「料理する」という趣向です。後奏のモヤモヤとした音の雰囲気は、料理の材料(男達)がグツグツ茹でられて、ついには形さえもなくなってしまう・・・・・という表現なのでしょうか。この曲が入っている三枚目のアルバム「コバルト・アワー」は、冒頭プロペラ機の爆音で始まり度肝を抜かれますが、B面の最後の曲も爆音が録音されていて、ひとつのトリップにLPが収められているようです。「ルージュの伝言」では、主人公が不安な気持で列車に乗っている設定ですが、バックが汽車の効果音を流し、コーラスも汽笛の音をまねるなど凝ったつくりです。

こうしたセンスの良さといったら、数え上げたらきりがない。例えば、ちょっとした言葉使いの面白さ。「ベルベット・イースター」「シンデレラ・リバティー」「アイアン・バタフライ」などなどウィットに富んだ表現を、ポッと歌に放り込みます。あるいは、「夜明けの雨はミルク色」(雨の街を)「昔に借りた本の中の、一番気に入った言葉を終わりのところに書いておいた。あなたも好きになるように」(返事はいらない)「紙ナプキンには、インクがにじむから、忘れないでってやっと書いた遠いあの日」(海を見ていた午後)・・・・・・こうした、何気ない生活の中からシーンを選んでおきながら、とても豊かな感性を詞に込める彼女の才能は流石だなと思います。

続く・・・・

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